五蘊(ごうん)      六根(ろっこん)

 


坐禅とは



「思い」を手放す

             

             「悟ろう」とするのではなく

             「悟ろうとする思い」を手放すことが坐禅です。



             「物の見方、考え方を変えよう」とするのではなく

             「物の見方、考え方を変えようとする思い」を手放すことが坐禅です。



             坐禅とは、

             何かを新たに手に入れたり、身につけようとすることではありません。

             手に入れたり、身につけたりすることができるモノは

             残念ながら、いずれまた手放さねばならない時が来るものです。

             財産しかり。金銭しかり。愛情・体力・才能しかり。

             それらは時間が経過し条件が変われば、いずれ形を変え消え去ってしまいます。


             坐禅、すなわち「いま・ここ」に出会うというのは、それとは真逆のことです。

             手に入れよう、獲得しようとするのではなく

             その「手に入れよう、獲得しようとする思い」を手放してゆく過程です。
             今まで無自覚に獲得し、握りしめていた様々な思い込み・信念・価値観・欲求              それらを手放してゆくのです。              手放して、手放して、「手放す」ということも手放して              結果              もう、手放そうにも手放しようがないもの
             思い込みにも、信念にも、価値観にも、欲望にも関わりなく在り続けるもの

             それが「非思量」すなわち「いま・ここ」の世界です。
                        
スタートがゴール


              
             ここで注意が必要です。

             坐禅中、ついつい「集中しよう」「心を鎮めよう」としてしまわれる方がおられます。

             坐禅とは、「いま・ここ」 に徹すること。

             ただそれだけです。

             そして
 
             私たちの誰もが、既に「いま・ここ」に生きています。

             「いま・ここ」から外れることなど誰にもできません。

             すなわち

             坐禅において、すでに私たちの為すべきことは何もありません。

             「集中しよう」「心を鎮めよう」とすることさえ不要です。

                          なぜなら

             私たちは集中する以前、心を鎮める以前から「いま・ここ」に存在しているからです。

                          「集中しよう」「心を鎮めよう」とするだけ余分なことをしていることになります。

             私たちの命はいつだって「いま・ここ」の命です。

             私たちは皆、間違いなく「いま・ここ」に生きています。

             であれば、

             私たちがこれから

             「”いま・ここ”に辿り着くためにしなければならないこと」は

             何もないということになります。

             私たちは既に「いま・ここ」に居るからです。

             最初から「いま・ここ」に居るのに、改めて「いま、ここ」に辿り着くことはできま

             せん。
             そんな「もう既にいる”いま・ここ”」に辿り着くためにどんなテクニックが必要と              いうのでしょう?              ただ坐るしかありません。              求めるものは何もありません。              
「思い」以前の世界


            
             繰り返します。

             坐禅にテクニックは必要ありません。

             敢えて言うならば

             「一切、テクニックを用いない」というのが坐禅のテクニックです。
             なにもしない。              この身に起こることの一切を起こるままに放置する、手を付けないということです。              見えっぱなし、聞こえっぱなし、感じっぱなしで結構です。              なぜなら              考えたから見えるのではありません。              考えたから聞こえるのでもありません。              考える以前に見えています。考える以前に聞こえています。              見えること、聞こえることに「考え」の出番はありません。              別の言い方をするならば              見えているのはいつだって「いま・ここの風景」です。              聞こえているのはいつだって「いま・ここの音声」です。              「いま・ここ」として在ることに「考え」つまり「心」は関係ありません。              「いま・ここ」として在ることに「考え」や「心」を矯正したり調整したりする必要は              ない、ということです。              考えや心が動いたら、動いたままにしておけば結構です。              邪魔にしたり、追いかけてゆく必要もありません。              構えば構うほど心は活発に活動し始めます。              思いが動いたら、動いたことに構わないで徹底的に放っておけばよいのです。              構われなければ心は次第におとなしくなってゆきます。
             いわば心の放置プレイです。

             これを只管打坐(しかんたざ)と言います。

             「ただ坐る」ということです。
             具体的には              「何かを矯正しよう・調えよう」「何かを理解しよう・納得しよう」とすることなく              自分の思考・感情をコントロールしようとすることもなく              ただ、見えているままに、聞こえているままに、感じているままに              在り続けるということです。              
理由なしの世界



             「いま・ここ」の坐禅において

             「なぜ」「どうして」「何のために」には出番がありません。

             「いま」に理由を求めているということは、ありのままの「いま」の状況を拒絶してい

             るということだからです。

             ありのままの今の状況を認めたくないから、認め、受け入れるための理由を・方法

             を欲しがっているということです。

             それは、

             逃げようのない「今」から、逃げ出そうとしていることに他なりません。

             今が今であることに「理由」などありません。

             今が今であることに「答え」などありません。
             「解答」を求めない              「答え」探しをやめる
             「今」への全面降伏。
             「答え」なし、「理由」なし、の世界              それが              坐禅すなわち「いま・ここ」の世界              見たまま、聞いたまま、感じたままの世界です。
「いま・ここ」の探究


             
             「結局、”いま”の中で、”いま”を探していたんだなぁ。」
             このことを栄宗寺では、坐禅を通じて皆さんお伝えしようとしています。              しかし              「”いま”の中で、”いま”を探していたのだ。」              そのことに気付くには、まず、何としても「いま」を探究しなくてはなりません。              一生懸命に「いま」に徹していただかなければなりません。              なぜなら              「いまに徹しようとする」              そのことに真剣に取り組んでいるさ中にしか
             「”いまに徹しようとする”ということさえ、いまの様子だった。」
             ということには、気付いていただけないからです。





          

 

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